By Daniel Nseyo, ナイジェリア
ある静かな朝、私はビクトリア・アイランドにある事務所に向けて車を走らせていました。そこは、大西洋岸にほど近く、ラゴスでは洗練された大都会です。道は最初は混んでいなかったのですが、信号機の故障で交通量が増えてしまいました。そのため、私は車の中で一人、故障が直るまで待たなければなりませんでした。ただ、一人きりでいる時間は長くありませんでした。
高速道路に沿って、私の車の近くには芝生の中央分離帯があり、車線が区切られていました。市議会は最近、この青々とした芝生を守るためのオレンジ色の柵を建てました。
この芝生には時おり、高級住宅地や、オフィス・ビルが建設されているクラモ・ビーチから、市内に迷い込んでくる馬が集まってくるのです。埋め立てられたビーチの厩舎では、観光客や旅行者に乗馬を提供しています。これらの厩舎から逃げ出したと思われる群れからはぐれた馬が、高速道路の中央分離帯で草を食べているのをよく見かけます。
車中で座っていると、私の窓一枚を隔てたところに、1000年以上前に北アフリカからナイジェリアに移動してきた大型品種のバルブ種の馬が立っていました。この種の馬は気性が荒いことで知られていますが、私の新しい渋滞の友は、緑の茂みの上で満足げに草を食み、私を無視していました。
国によって、あるいは人によっては、この大型の生き物を下等な動物としか見ない人もいるでしょう。しかし、この馬を見ているうちに、私はこの馬が「ソウル(魂)」であることがわかり、感謝の気持ちが沸きはじめました。私はこの馬を肉体以上の存在で、「ただの動物」 ではないと思えました。いったいソウル(魂)はあの肉体の中で、どのようにすべてを生かすことができるのだろうか?今回の人生で、このソウル(魂)は馬として最高の生涯をすごせるのだろうか?と不思議に思いました。
突然、すべてのソウル(魂)は神の愛に反応するという気づきが私に沸き起こりました。人間や馬の姿の違いにかかわらず、このソウル(魂)に愛を与えよう。どんな姿のソウル(魂)にも愛を与えるということを試してみようと思い、神への愛の歌として歌われる非指示的な祈りである「HU(ヒュー)」を唱えることにしました。HU(ヒュー)は、何の期待もない普遍的な言葉である愛を表現しています。
私はこの馬の魂への愛と感謝で心を満たし、心の中で静かにHU(ヒュー)を唱えました。すると驚いたことに、馬は草を食むのをやめ、耳を動かし、「HU(ヒュー)」の内なる音を探すように辺りを見回し、私を見つめました。次に、馬は歯を見せて、満面の笑みを浮かべたのです。私たちがしばらく微笑みを交わした後、馬は再び草を食べ始めました。
すべての生命への愛
車が再び動き始めたので、私は仕事に向かう車の中で、群れからはぐれた馬との、ソウル(魂)とソウル(魂)のつながりについて考え続けました。ソウル(魂)として、私たちは神性知識を持っています。エックの教えやHU(ヒュー)を唱えるなどのスピリチュアルなエクササイズは、私たちの心の中にすでにある神への愛を魂に呼び覚まします。この馬は、HU(ヒュー)の中に神の愛を感じ、それを私に返してくれたのだと思います。
私はこの経験を通して、動物は肉体を超えた存在であることを感謝と共に理解しました。動物は人間の言葉で自分を表現しませんが、ソウル(魂)として神の愛を感じ、愛によって他の生命体と交流しているのです。
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